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瞑想の神髄

瞑想というと神秘体験をイメージする人もいるのかもしれない。

だけど、瞑想は「特別な自分」になるためのプロセスではない

 

自分が考えていることを客観的に瞑想を通じて「観察」し、瞑想を通じて「受け入れる」ことでいわゆる【無】を手に入れる作業なのだ。

 

日常は瞑想であふれている。

目を瞑るという瞑想をするだけではなくて日常にさえ瞑想がある。観察することと自分の人生の現実を受け入れることさえできれば、あとは無になるだけ。それはすでに瞑想なのだ。

 

観察し、自分の人生を受け入れ、手放すことさえすれば、そこには瞑想が存在するということである。

 

雑念を止めない

目を瞑る瞑想をしている間、わたしたちは頭の中でいろいろと余計なことを考える。

集中しようとすればするほど、その頭の中での余計な言葉や雑念はひどくなる。

そして、いつの間にかその雑念が瞑想の目的を≪雑念を止める≫という目的に変えてしまう。

 

その頭の妄想を《止めよう、止めよう!》とすればするほど、それはわたしたちが目的としている【無】からは遠ざかる。それは、すでに自分の言葉そのものに対する執着を生んでいるからだ。

しなければいけない は自分の固定概念の癖であり、執着

わたしたちが

「…しなければならない」

などといった、自分の思考を縛る言葉を使って自分の思考に執着することは怖いことなのである。

 

仕事を例にとれば、もう体が悲鳴を上げているのに、または心が悲鳴を上げているのに

《家族のために仕事を辞めてはいけない》
《みんなが頑張っているから自分も頑張らなければいけない》
《みんながしているから自分もしなければいけない》

といった風に、自分の限界を超えて、または自分の気が付いていない恐怖心や自分の固定概念に縛られてその考えに執着することは、目的がもうすでに変わってしまっていることに気が付く。

 

この「…しなければいけない」という執着の観念が最も顕著に出るのが瞑想時の《雑念》である。

 

瞑想の途中で雑念が沸いた時の自分のこの雑念の処理の仕方により、人生が大きく変わるのである。

 

わたしたちは他人と自分とは全く一緒の人間という存在であり、生きている価値は等しいが、他人の人生や他人の意見を背負いすぎることは、自分の人生を全うする、という目的からは少し外れてしまうのだ。

 

 

雑念が沸いてもいい。

止めてもいい

止めなくてもいい

 

ただ、そこに自分がいる。

 

というのが瞑想である。

 

何が言いたいかというと、わたしたち人間がこの世界で生きていくためには必ず自分とは違う他人が必ず必要なのである。わたしたちが苦しむ原因は、人間関係が主であり、その人間関係に引っ張られ、自分の人生の舵を自分でうまく取れなくなってしまう。

 

よって、自分だけで生きることは難しいがこの瞑想で起こる雑念と同じように、常日頃様々な感情を握りしめている自分の心を客観的に観察し、受け入れ、手を放していけばいいのである。

 

等しく自分と他人は一緒の存在であるならば、私たちそれぞれが自分の人生を全うする必要があり、わたしたちの人生を全うするために他人を犠牲にするわけではなく、お互いに切磋琢磨すればいいとわかってくるはずなのである。

 

あなたもわたしも一生懸命生きている、という共感心と共同観念が生まれさえすれば、わたしたちそれぞれに与えられた宿命や運命で傷ついたり自分の人生をどうにかして良くしようと考える人たちの苦しみや悲しみも理解しながら、何度転んでも立ち直れるということを皆が知ってさえすれば、どのように支えあい、どのように寄り添うあうことが必要なのかわかるようになる。

どんな状態の自分でも(他人でも)完璧だから。

つまり、本来このことを理解さえすれば無理やり目を瞑って瞑想しなくても、観察と受け入れと手放しで私たち自身は幸せになれるのだ。

 

瞑想なんてしなくても、悩んだり落ち込んだり凹んだり笑ったり怒ったりする、ありのままの自分でいいのである。

自分自身(生きとし生けるもの)が生まれて生きていることに、非常に価値があるのだから。

人と比べたり、人の目を気にしすぎて生きたり、自分に自信がない自分でさえも、今はそれでいい。

自分(あなた)でいいという気づきが生まれさえすれば、自分(あなた)の価値そのものが生きているだけで十分価値があるとわかりさえすれば、それでいいのである。

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