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この世に存在してはいけないものはあるのか

 この世に存在してはいけないものはあるのか、ということをふと思う今日この頃。

 

この世界は、日々汚れてて環境問題なんやらを考えれば人間なんて全滅させた方がいいって思っても仕方がないくらいで、自分たちの都合のためには利用して、そして価値が無くなったら捨てる、という外道の行為が知らず知らず行われているわけだ。

 

それらに直接手を貸していなくても、例えば食べ物を大量に手にした結果、食べきれなくて捨てるとか、腐らすとか、はたまた知らない人間が勝手にやった森林の過度な伐採や太陽光発電とか、土地開発とかのいわば人間の都合によって森林や河川はどんどん少なくなって、その結果、動物は野に放たれ、水は汚れ、洪水が起こるわけだが、

 

野に放たれる動物を毛嫌いして、殺したりすることしかできなくなったり、水が汚ねえってのも、洪水が起きたのも、間接的にものを欲しがってきたわたしたちが、土地を開発する人たちを助長させているわけで、全くもって罪がないわけではない。

 

かといって、わたしたちは悪いことばかりしているんか、とも思えないわけであります。

 

肉問題もそうである。

肉を食べないっていう人たちは、信仰上の理由からそういう意思で食べない人もいるが、好き嫌いで食べない人もいるし、環境や命に配慮して食べない人もいる。

 

わたしも一時期、肉は食べてこなかった。

今も、それほど好きなものではない。特に牛肉が苦手だ。。

ただ、私の場合自分から欲しなくても、自分の手元に来た肉は食べるようにしている。

なぜならば、肉そのものには罪がないからである。

 

そう、ここに至ったのはわたしが単色野菜しか食べないというビーガン生活を一か月行ったからこそ得たものである。

 

一か月過ぎるころには体調が悪くなり、貧血のような状態が続き、血の気が引いたような状態になっていた。そんな時に、わたしは強烈に卵が食べたい、肉が食べたいという気持ちになったとき、はじめて人間に必要な栄養素であると実感した。

 

人間のために犠牲になった命は、人間の命を守るために犠牲になってくれているのだなあと、ちょっぴり感動すらしたのである。

 

わたしが動物だったら、無作為に殺され、肉となり、それが結果的に粗末に捨てられて命を人間の勝手で軽々しく扱われることが許せなくなった。

 

捨てられる命なら、わたしがありがたくいただこう、そう思ったきっかけである。

 

わたしはこの世に存在するものがいつの間にか悪とされ、軽蔑され、それが動物保護という目的であってもなくても、嫌悪から捨てられる、毛嫌いされる、ということは甚だ理不尽であるとも感じるわけである。

 

 

神さまは、人間に必要でないものを与えるのだろうか。。

わたしは、日々そう考えるわけであります。

 

現に、与えられたことで私たちは歴史を経るごとに、日々贅沢になっていく。

しかし、この贅沢さというものはわたしたちの精神を壊滅的に堕落させている気もするのも確か。

 

どんどん簡単に、楽に、時間をかけずに何もかもできる世の中になるのは、一方で多数の大きな犠牲も伴っている。

 

簡単に、楽に、時間をかけずに何もかもできるごとに、文明の発達とともに、その簡素化を目指すために大きな犠牲が伴っている。

 

もし、神様が物質以外でわたしたちに何かを与えているとすれば、それは「考える」ということである。

 

どのように、与えられたものを使うか

どのように、与えられたものを考えるか

どのように、与えられたものを受け止めるか

どのように、与えられたものを利用するか

 

 

わたしたち人間自身も、自分に与えられたものが人と比べて劣っていたり、過小評価して自分に急に自信がなくなり、もう死にてーって思うことなんてしょっちゅう誰にでもあるのではないか。

 

こういう人生のはずじゃなかったんだけどなー。とか私なんてしょっちゅう考えますけど(笑)

 

だけど、神様は必要ないものをこの世に存在させる理由があるのだろうか。。。

 

人間の優劣も、しょせん神様から見たら「人間の心の汚さの象徴」。人間が勝手に優劣をつけて一喜一憂しているだけだからだ。

 

神様が個人個人に特別に優劣をつけているわけではなく、

各々の能力が必要だから存在させている。

そして、必要だから死んで、

必要だから、生まれ変わる。

 

ただ、それだけ。

だから、もしかしたら本当は生きているだけで何もしなくてもいいのかもしれない。ブッダだって悟り開きすぎてひきこもりだったんだから、ニートもひきこもりも、自立してさえすればそれでよくて、もしかしたら悟りを部屋で開いてるかもしれないわけで…

 

だとしたら、やっぱり人のことよりも「自分に与えられたもの」を考えなければいけないのではないか。

 

どのように、与えられたものを使うか

どのように、与えられたものを考えるか

どのように、与えられたものを受け止めるか

どのように、与えられたものを利用するか

 

必要ならば活かし、必要なければ捨てる。

そのようにシンプルに生きればそれでいいのだ。

 

自分の人生が人と被るなんて詰まんない人生、まっぴらごめんだわ…。

本心はみんなそう思ってないのかな…。

 

 

神様は、必要ではないものを与えてないのだってわたしはそう信じたいですけどね。生きてると、心乱されることもあるよ、仕方ないね。

 

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