昨今はいろんな問題で世間がにぎやかだ。
18歳の体操の宮川紗江選手。
大人とケンカなんてすごくかっこいい。大人が情けない。スポーツの原点は武士道だぞ!ぷんすか!
いまさらながら武道家の道を進んでいる未熟者の私だが、我が一門は先輩が大勢おり、その先輩が外国人が多数を占める勢いで急速に伸びている。そして、アメリカ人をはじめ、スエーデン人、フィンランド人、イタリア人、タヒチ人、中国人、韓国人など多国籍の同門の先輩を見ていると、日本人であることが情けなくなるほどものすごく哲学を持って勤勉している。
わたしたち日本人の祖先は侍であったはずなのに、先。祖の威光をダークサイドまで落とした代表的日本人のわたし。
義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義
という武士道の哲学はどこへ。。。
そう、昨今の各種の問題の複雑さは日本古来培われてきた武士道の精神があるからややこしいのである。外国と比較することは、そもそも大きな間違いだ。
わたしたち日本人は宗教観が諸外国に比べ薄く、あまり宗教に深く入り込むことはない。
人としての道徳を学ぶという行為を宗教で補ってきた外国人と、親たちが子子孫孫受け付いてきた宗教的な道徳要素を持った行動様式、つまり武士道や社会生活の中の一環で身につけてきたものが骨身までしみ込んでいる日本人・・・。
アジア圏は仏教という非常に現実主義の、自分自身の中に神がいることを前提に自分に主眼を置いたものであるのに対し、西洋は神は別に存在していて自分を見守っているという客観的な宗教観であると考える。
まあ、どっちも正解なんだけど空ばっかり見ている宗教と(西洋)土ばっかり見ている宗教(アジア)というざっくりとした二つの文化が今、この時代に重なり合っている。
そして、実はこの土ばっかり見る現実主義の行動こそ、身を持って知る、身を持って感じる、自分を主眼に置く、という非常に崇高で最も難しい偉大な行為が外国人はとても刺激的で有益であることを日本人よりも先に感じている。
ということで、武士道の義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義とは、ざっくりいうと以下である。
義は人としての信念(魂)
勇は人として正しいことを行う行動力と平常心
仁は情け深く敵も味方もなく赦すこと
礼は相手をおもんばかり、敵味方なく人を信じ愛すること
誠は有言実行
名誉は自分に恥ずかしいことをしない生き方
忠義は信じるものや人を大事にし、どこまでも信じてついていく
われわれ日本人は、DNAの中にこれらが知らぬ間に組み込まれているんだ。だから、卑怯なことや恥ずかしいことをする生き方をすることも、されることも、そのように生きることも他国に比べて数倍デリケートにできていて、人一倍人に厳しい。
だけれども、義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義
これらはどれも過ぎれば毒、足りなければ薬にもならない。
そして、今の日本人に圧倒的に足りないのは
仁、礼、忠義
人を許し、人を愛し、忠誠を誓う何かが圧倒的に足りない。
お金に忠誠を誓う人はたくさんいるが、この武士道の法則は物理的なものに制限されると必ず失うようにできている。
お金を借りれば礼を尽くすために多く支払い、
お金を返さない人間を大事にできなくなり
正しくないことに目をつぶり、
相手に対して平常心を失い
自分の信念が崩れていく。
よくできた話である。
本当に、外国人の先輩方はどうしてそこまで好きか?というくらい、稽古を行う。わたしなんかはすぐ暑い、疲れた、もう休憩!とすぐ口に出す。
昔のすごい侍は、とてつもなく自分に厳しい。
外国人の居合の先輩を見ていると、昔の侍を見ているようでものすごく恥ずかしくなる。きっと今の時代にアホみたいなことでああだこうだ言っている我々日本人の昨今のニュースや話題が、先祖からの“目を覚ませ”コール・・・かもしれない・・もっと自分に厳しくなれ、とか言ってるとか言っていないとか・・・
とにかく、18歳の体操選手の宮川紗江選手とコーチが一緒にオリンピックや大会に出られるといいな。。
人間がひとりの人間を信頼できるということは本当は素晴らしいことです。わたしは本当にうらやましいです。人を信用できる強さは、自分を信じられる強さがある人しか叶わないのです。
わたしは、武士道に程遠い生き方で・・・情けないことこの上ない・・・
彼女の中に立派な武士道を見ました。あれこそ、武士道だ!
あの若さで、あれだけ人を信頼し、人を守り、オリンピックという舞台より優先させた強さを尊敬します。宮川紗江選手見守ります!