突然ですが、タイトルにあるようにあなたは今、自分が本当の自分で生きていると思いますか?
わたしは、40近くなるまで本当の自分としては生きていなかったと思います。
自分が苦しくて悲しくて死にたくなったからこそ、はじめて自分を探そうとして哲学や宗教や心理学、占いなどで自分を知りたいと一生懸命探して、今、やっと少しずつ本当の自分を見つけたような気がします。
本当の自分を知るということは怖いことです。
なぜなら、自分の嫌なところや見たくないところをたくさん見ないといけないからです。
人は、いやなことや目を背けたくなることに敏感で、それをとても避けようとします。
でも、人は本当の自分を知るためには痛みやそれに伴う苦しみを知らなければいけません。なぜなら、幸せがあるならば、不幸は必ずセットでついてくるからです。
ヨガの哲学に八支則があります。
この自分を見つめて浄化してきれいにする段階をNIYAMAといい、我々の欲や執着と決別する最初の段階のひとつです。いやなもの、見たくないものを見ることは、わたしたちの心に浄化を促す行為です。
わたしたちが本当の自分を知るためには、受け止めて前に進む覚悟が必要になります。
わたしは、人に言えない悪口は言いません。
それを治せば、それがその人にとって一番浄化することだけを見ていいます。
本人がそれを聞きたがるとき、またはそのタイミングが来たら絶対に言います。
わたしは、人が痛みに耐えて前に進む力があることを知っているからです。
だからといって、私はあまりにも人を見すぎて余計なおせっかいをするところがあり、それが大きなお世話になることも知っていて、この性格に毎度毎度辟易するわけです。わたしの最も嫌いなところは、人を見すぎて自分を見ないことです。
わたしが日本に帰ってきて感じたことは、インドと日本の価値観が違うことです。
インドでは煽り運転当たり前、牛のうんこは落ちてるし、踏んで指につくし、洗濯は手洗いだし、ハエは飛んで体にまとわりつくのは普通だし、何もないところで何もないなりに生活していかなければいけない。
しかし日本は、インドとは真逆で、煽り運転はないし、道路は清潔だし、においもないし、虫はいないし、洗濯も全部勝手にしてくれる、こんなに恵まれているにもかかわらず、人が殺伐としている。
インドの価値観と日本の価値観は違うというならば、いったい、価値観とはなんだろう。
集団の中のひとつの価値観が形成されて、もし、それがわたしたちの不自由さのもとになるのなら、わたしたちは余計な価値観を捨てて、もう少し自由にならなければいけないのだと思う。